2001会長講演要旨
エミール・ゾラと鉄道写真

海外鉄道研究会会長 小池 滋

 Emile Zola(1840〜1902)は19世紀のフランスの小説家で、日本ではモーパッサンやフローベルほど有名ではなく、作品全部は翻訳されていないが、ある程度日本の作家にも影響を与えている。先祖はイタリア人だが、本人はパリ生まれのパリっ子である。今日はゾラと鉄道、特に彼が写真を通して鉄道をいかに表現したかを紹介したい。
 日本でゾラの名前が最も知られたのは、19世紀末フランスで起きたドレフュス事件との関係である。フランスは1871年、プロシアとの戦争で大敗し、ナポレオンIII世は失脚した。これで鉄、石炭など鉱物資源が豊かなアルザス・ロレーヌ地方をドイツに取られ、フランス人はドイツに対し屈辱感と憎しみを抱いた。
 1894年、フランス軍のユダヤ系ドレフュス大尉が、軍事機密をドイツに売った疑いで軍事裁判で一方的に有罪と決められ、軍籍を剥奪、中央アメリカに流刑された。これに対しフランスの知識階級は、事件をユダヤ人に反感を抱く軍部のでっち上げと反論し、ジョージ・クレマンソーが主筆の新聞「オーロール」はドレフュスを擁護し、事件を軍部の陰謀と書き立てた。1898年、このオーロールにゾラが「私は告発する(J'ACCUSE)」と題する軍部法曹界に対する公開質問状を載せた(大佛次郎『ドレフュス事件』参照)。これでゾラは逆に名誉棄損罪で訴えられ、1898年から99年にかけ英国に亡命した。
 しかし事件が国の威信を盛り上げ、国民の憎悪をかきたてるためのでっち上げであることが世に知られてきたので、翌年ゾラは帰国した。実際にドレフュスの無罪が確定したのは、ゾラ死後の1906年であった。ゾラの小説は日本ではあまり読まれなかったが、正義の味方としてのこの行為で有名になった。本来は芸術家としてのゾラをもっと認めるべきであった。
 ゾラはまた、美術評論家として良い評論をたくさん書いた。日本の銀行のカレンダーに印象派のルノアール、マネ、モネなどの絵が多く使われているが、当時印象派の絵は全く無視されていた。しかしゾラは彼らを高く評価し、マネやモネなどと親しく交際していた。
 当会の皆さんがよくご存じの、クロード・モネが描いたパリのサンラザール駅の絵があるが、彼はこの付近の絵を沢山書いている。こうした印象派の画家を有名にしたのにゾラの評論があずかっている。ゾラは小説家であった一方、このような図象芸術に鋭い感覚を持っていたので自身、写真を沢山撮っていた。ゾラが小説家として活躍しはじめたのは1870年代で、当時高価だったイーストマンのボックス・カメラを入手して、彼の家族を始め、パリの風景など(その中には蒸気トラムも登場する)片っ端から撮りまくった。金のかかる道楽だった。
 ゾラの膨大な写真コレクションを彼の孫フランソア・エミール・ゾラが整理し、1979年に1冊の本として出したのが『写真家ゾラ*』である。私は何となくこの本を買ったが、開いてみてゾラの鉄道に対する興味に驚いた。彼はメモ魔に近いほど写真を撮って歩いた。
 1877年に彼の書いた小説『居酒屋』が大いに当たり、印税で金持ちになって、パリの北西郊外に引っ越した。サンラザール駅からセーヌ川に沿って下ったメダン(Medan)村に家を買い、ここに文学サロンを開いた。毎週火曜日の夜、画家や文士が集まって議論し、ここから若い作家などが育った。例えばモーパッサンもここで発表した短編小説『脂肪の塊』が世に認められて、小説家としてスタートした。
 このメダンの家はパリからルアーブルに行くウエスト鉄道のすぐ脇にあった。写真があるが、小説一つ書くとこんな立派な家が買えた。それでも彼は文学上の師で『ボヴァリー婦人』を書いたフローベルへの手紙では「兎小屋が買えた」と謙遜した。広い庭を下ったところにウエスト鉄道が走っている。
 当時、アメリカへ行くにはルアーブルから船に乗り、またイギリスへ行くルートの一つにディエップからニューヘヴンに渡る航路があったので、ここを通るウエスト鉄道は主要な国際路線だった。ちなみに明治末期、永井荷風が横浜正金銀行社員としてアメリカからフランスのリヨンに赴任する際、ルアーブルからサンラザール駅に着いたことが『あめりか物語』や『ふらんす物語』に載っている。その際の列車がゾラの家の側を通ったことを荷風は知っていた。
 ゾラが線路際に住んだのが偶然か意図したのかは分からないが、鉄道マニアとしての私は、ゾラが好きでこの家を求めたものと思いたい。彼は金持ちだったので汽車がうるさいと思えば避けられたであろうから、興味を持っていたに違いなく、邸からそばを通る汽車を撮った写真は多い。またウエスト鉄道のターミナルであるサンラザール駅の写真も沢山残っている。
 彼は『居酒屋』や、フランスの政界、財界に食い込んだ高級売春婦を女主人公とした『ナナ』などによって、社会の風俗や生活を広い目で眺めた人である。鉄道員を主人公にした長編小説を1890年に発表したが、それが"La Bete Humaine"で、日本では『獣人』(岩波文庫)や『野獣人間』(講談社)の訳で出されている。表題を直訳すると「人間という獣」すなわち人間はもともと獣であり、理性、知性とかいっても、実は本能のおもむくままにしか行動できないことを認識すべきだという意味を持つ。
 主人公は蒸気機関車の機関士ジャック・ランチェ、映画でご覧の方もいると思うが名作で、第2次大戦直前の1938年にできた。監督はジャン・ルノアール、主人公のジャックはジャン・ギャバンが演じ、日本では戦後封切られた。
 ジャックはウエスト鉄道の機関士なので、小説には沿線風景、列車の動き、終着駅サンラザールなどが多く出てくる。ゾラはこれらを克明に取材した上で、創造力を働かせて書いた。ウエスト鉄道に頼んで実際に機関車にも乗った。それ程ゾラは凝り性の人だった。
 ジャックは真面目で模範的な機関士だったが、彼自身遺伝的に危険な要素を持っていることを自覚していた。女を見て性欲が増すと殺したくなるので女に近づかなかったが、その彼がルアーブル駅長の妻を恋してしまった。彼女は夫から暴行を受けている美女であった。
 当時のサンラザール駅についてもゾラは克明にメモし、写真を撮ったものが写真集に出ている。約8年前に私が撮ったサンラザール駅の写真と比べてほしい。基本的にはモネの絵ともあまり変わっていない。
 ゾラは単に事実を述べるのではなく、印象派画法のような独特の手法を使って書いた。例えば汽笛音は「レイプされた女の悲鳴」と書き、機関車の前照灯は「赤い怪獣の目」と特別の表現をした。彼は鉄道の魔力に取りつかれていたかもしれない。この小説を書いた後ゾラはドレフュス事件で告訴され、ロンドンの南郊外に逃げて1年間住んでいたが、ここでも汽車の写真を撮っていた。
 『野獣人間』の最後ではジャックは愛する女を殺してしまうが発覚せず、別の男が犯人としてあげられる。世間は彼を相変わらず真面目人間として見ていた。そこに普仏戦争が始まり、フランスの兵隊を乗せた軍用列車がドイツとの国境に向かい、ジャックがその機関士になる。そこでジャックと助士が些細なことで取っ組み合いの喧嘩になり、二人とも機関車から転落死する。列車は無人運転で暴走するが止めるすべはない。列車に乗っている酒酔い機嫌の兵隊たちは迫り来る危険を知らない。小説はその後の大惨事を暗示したまま終わる。
 汽車は人間のすべてを象徴し、酔った兵隊たちは人間一般で、これが人類の運命であることを作品は暗示している。フランスの医師クロード・ベルナールも「人間には生物学的に定められた運命があり、それは意思などでは動かせない」としている。ゾラはこの暴走列車をもって人間の恐ろしい運命を表した。
 19世紀は鉄道が科学の先端を行った時代で、ゾラは科学の暴走が人類破滅の未来をもたらすと警告した。彼の鉄道に対する見方は哲学者のそれではなく、視覚的にカメラレンズを通したもので、彼は目で物事の本質を捕らえる「目の人」であった。
 皆さんもゾラの文学に興味を持つばかりでなく、彼がカメラを通して見た鉄道、また彼が紹介した印象派の絵画が扱った鉄道に関心を持って下さい。

*ZOLA PHOTOGRAPHE,per Francois Emile Zola et Massin(Paris:Denoel,1979)

(2001/01/14 海外鉄道研究会総会にて)


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